「月1近況」という項目を、記事の分類に追加しました(7月時点)。なので2025年の6月を振り返りながら書いています。
6月は5月の続きでずっと、私は支持体が空間においてどんな認識を与えるのかについて考えていた。それと同時にミニマリズムの芸術家の考え方を学んでいった。ここで少しだけ、その大概を述べる。西洋絵画における伝統だった中心性やイリュージョン性(内容に深みを与える)を超えて、フランク・ステラは1960年代に“What you see is what you see”と述べた。それは芸術の歴史における一大事だった。後にその言葉は、ミニマリズムにおける重要な根本の哲学として貫かれている。これまでは絵の具を乗せるためだけに使用されてきた支持体も絵の具も“物質だ”と言ったのだった。「見えるものは見えるものだ」という言葉は、目の前にある物理的な存在そのものが全てであると言うことである。それは従来の絵画のように、絵の表面の中のイリュージョンに引き込ませるといった作品と鑑賞者との関係性からの逸脱だった。目の前に見えるものは物質であり、鑑賞者との間には決定的な断絶がある。結果としてそれは、鑑賞行為そのものの認識の転換を促した。また、作品そのものが直接的に空間に与える影響や、鑑賞者と空間と作品についての考察を促すための契機となった。
さて、また自分自身の考えに戻るが、現代の我々がミニマリズムの文脈において新しい認識の転換を促すための装置を作れるとしたら、どんなものだろう。特に東アジアの日本にいる私にとって西洋の文脈と東洋の文脈では、まず空間の認識に対する哲学的衝突があるように思える。それをどう乗り越え、どのように融合し、またそれは何に活きるのか、どんな学術的な貢献を社会にもたらすことができるのか。そんなことを考えられずにはいられなくなった。この興味深い問いは、これからの私の研究にとって間違いなく欠かせない思想の1つとなるだろう。西洋の直線的な時間感覚の上に成り立つ空間認識のあり方と、従来の西洋的な空間の認識のあり方のどちらをも、まずはもう一度くまなく学ばないといけないと思っている。それと同時に東洋に普遍的に通底する時間感覚のあり方や、昔の日本人が豊潤に確立してきた舞台芸術における時間感覚における美意識を、茶の湯や能の伝統芸能からもう一度学習しようとしている。
私は大学院までインテリアデザインを学んできたので「形が与える空間に対する知覚と感覚のあり方」は、まさに研究の中心にある部分だ。大学時代に、既に西洋と東洋における空間に対する美意識や日本の時間感覚に対するあり方は専門的に学んできた。その後大学院を修了し立体ではなく一瞬だけ絵画の道に興味を持った。その時は絵画において時間と空間感覚に対する重要性の意識は希薄だった(現代アートについて詳しく学んでみるとそれは恥ずかしいことだったが)。そうしてまた立体的な構造感覚に興味を持った上で、振り返ってみると現在の現代アートの文脈において、もちろん立体と絵画の折衷主義的な表現形態のあり方の追究の方が本道である。
このようにして、私自身の制作や研究の窓口が少しずつ明瞭になってきた。ミニマリズムという思想を手がかりに、支持体や物質性、空間と鑑賞者との関係性について問い直すことは、単に西洋の美術史の追従ではなく、むしろその構造を相対化して、東洋の時間感覚や空間美学とのあいだに新たな対話の場を開くことだと感じている。特に、現代の日本においては、西洋由来のモダニズムやミニマリズムの形式にただ従うのではなく、そこに東洋的な「間」や「余白」の思想をどう取り込むかが、今後の芸術実践において非常に重要になるはずだ。
今後の研究では、西洋の理論と東洋の実践の双方を往還しながら、「空間をさわる手前で」立ち止まり、感じ取り、言語化するプロセスを大切にしていきたい。空間をただ構築するのではなく、空間との関係そのものを組み直すような、そんな装置や作品を目指していきたいと考えている。
2025.7.7 大越智哉 / Tomoya Okoshi