【月1近況 Atelier Diary】風に任せて時をなぞる|2025年5月

「月1近況」という項目を、記事の分類に追加しました(7月時点)。なので2025年の5月について書いている今は、7月です。よって、次の6月についても同様に書いていきます。それでは。

4月に書いたことを思うと、5月は「ゆっくりと流れていく時間のなかで、心の器からこぼれ落ちなかった大切なものを信じて」と以前に思い描いていたことがそのまま体現された。4月の奔走した時期に比べたら、自分は何者なのかということを再確認できた気がする。より身体的な感覚に意識が向き、昔のように草の上を自由に走りまわっているような、自分の中の根源的な感覚に浸れた気がした。ここで一旦、5月7日に書いた文(詩)を載せます。


 風が吹けばどんな心にも風が流れる。

その時、頭と世界が一緒になって揺れ動き、
身動きが取れないながらも“何か”に気が付く。

身体は容器であり、
その外側に流れている風と内側の働きが身体の隔たりを超え、
自分が世界に溶けてなくなるような感覚に包まれる。

風に身を委ねると、
自分は自分でありながら、
“自分であり続けようとするこど”を忘れられる。

だから、たまに風のなかに浸って外の世界が確かに
存在していることを感じて、
風を感じるということは自分がいるということの
確かさを再び感じていくことだろう。

一記録・記憶-2025.5.7

自分の身体感覚が取り戻されると、過去に作ったものや今作っているものが見えてきた。さらに、今まで気が付かなかった視点で世界を改めて見つめ直すことができた。結果的にそれらの体験を通して“言葉の力”、そして“誓いの言葉の威力”というものを実感する。人は、言葉によって日々思考し行動を紡いでいく。先月に立てた“言葉”が誓いとなり、徐々に掘り起こすことのできる心の部分があると身に沁みて確認できたのではないかと思考を巡らせる。5月前半は、抽象表現主義に影響を受けて抽象絵画を制作していたが、徐々に関心が立体へとまた移行してきた。絵画の作品を制作することは、絵の内容と向き合うということであり、それは内容に深みがなくても、支持体の表面のイリュージョンを通して新しい世界を感じさせようとする試みに他ならない。自分にとって抽象絵画を制作する試みは初めてだったので新鮮であり、独自の仮説に基づきある一定の期間は制作に没頭することができた。

しかし、「このまま続きそうにない」と気づいたのは何故かというと、自分は絵の内容を表現しようと積極的になるよりも、むしろ支持体を制作するという行為自体の方が向いていて、魅力的なことだと腑に落ちたことからだった。そして、支持体の概念を再考するということは結果として、抽象表現主義の後に現れるミニマリズムの文脈に沿った行為であることを詳しく知って、“絵”を描くことを止めようと思った。自分は、これまでの大半を立体制作を通して手と頭と世界との接続を図ってきたので、やはりものを自分の手で生み出すこと自体の中に思想を込めることの方が向いていると思い知らされることになった。

5月の後半からはすぐに、ミニマリズムについて詳しく調べ始めた。特にFrank StellaやDonald JuddそこからRobert Mangoldなどといった抽象からミニマリズムの移行の時代に活躍した特定の主義主張を持ったアーティストについて調べていった。空間に対する主張や、物質と鑑賞者の間に起こる現象の追究など、現代的な研究テーマを内包していることをよく知った。それは、以前に制作し自身が追究しようとしていることと重なった。今までなぜ、彼らのことをもっと知ろうとしなかったのだろうと思った。5月は自分の実現しようとしていることを言語化し、思考するための領域があることを改めて実感できた。

2025.7.6 大越智哉 / Tomoya Okoshi