最近の制作活動について

今年の2月後半にアトリエを構えた。それ以降は主に絵画の作品を中心に制作している。2024年の、制作への意識が迷走していたところからようやく抜け出し、それからは立体作品を制作していたときと同じくらいの熱量を持って作品制作に取り組むことができている。3年くらい前の以前の自分は立体作品を中心として活動を続けようと思っていたところがあった。大学院の修士課程まで立体のデザインを学び、立体作品で活動を続けてきたことによる。しかし、大学院の修了以降、時間が経つにつれて立体では表現しきれない思いや衝動が平面作品にも手を伸ばすことを後押しするようになった。立体作品は文化的な遺跡や遺物に見られる形から着想を得たり、またその形を作るための造形意志に対する自分の考えと想いを表現することに挑んできた。それ以来、よりアーティストとしての自分自身に向き合った時に、「何を作るのか」という問いから、より「自分自身を表現したい」という気持ちへと意識の変化が起こった。外界に対する興味から、内面への興味という風な、作品の支えとなる部分の変化は、作家としての自分の大きな転機となった。

立体作品の制作を抑えた2024年は作品制作において困難な年だった。アトリエはなく制作場所も限られていたからだった。そんな中で過ごしていると、何かを作りたいという気持ちが内面で渦巻いて、エネルギーの停滞というかどんよりとした気持ちが無限のループを生んでいるみたいで、その垢抜けなさがまた負の連鎖を生んでいたように思えた。それでも、限られたスペースで様々なドローイングをするように、実験的に小さな作品を作り続けた。それらは今まで作ってきたものの形とは随分かけ離れていたように見えた。しかしそれは、その後の自分の制作において必要になる重要なプロセスだったと感じている。それは、新しい自分を発見する行為だったし、内面に潜む小さな声を拡大し確かなものにしていく行為だった。

作品制作にとって本当によい新しい環境を手にした上で、作家としての今の自分が向き合っていかなければならないことは、ゆっくりとした時間を日々感じていくことだと思う。なぜなら、今までの制作スタイルは、ぶっ通しで作り上げるスタイルだったからだ。それでは、作品の“コアになる部分”と“造形する”ことの二つの距離が遠ざかってしまう。自分に足りていないことはそこだった。アートのコアは作り上げるものではなくて、築き上げていかなければならないものだと最近は感じている。または、ゆっくりとした時間の中で鍾乳石のように積み上げていくものだと実感している。大切なものは、全部自分のなかに取り込まなくてもいい。こぼれ落ちるものがあってもいい。また、大切なものは合理性とは何か関係があるのだろうか。自分にとって大事にするべきことは、その時に大事にしたいと思うことではない。“大きな時間を浴びせられて、その中で残ったものを信じること”それである。

これまでに流れていた時間に目を向けるということ。そして、これから新しい環境で流れていく時間とこれまでの時間が徐々に合わさっていくということ。そのなかに、過去と現在、未来を接続するためのエッセンスがあると思う。もっと過去を遡れば、個人を超えた大きな時間の流れを体感できる。今の自分が現代で豊かな暮らしができるのも、過去の多くの人々が莫大な時間をかけて築き上げてきた文明だったという確かな証である。建築家や美術家、音楽家、名もなき職人…。また、それらに名前が付いていなかった原始の時代からの数多な人々がいた。自分もその流れに身を置いてみる。そう感じると、これから自分が築き上げていくものも、現代に生きる個人として文明の発展に少しながらも力になり、今より先の未来へ向けた人類に影響を与えるものなんだと感じられる。その壮大な流れに身を置くことにより、かえって今までよりも自分の“今生きているところで培われた文化的なアイデンティティ”と“影響を受けたカルチャー”を改めて感じることや、無意識の中から再度発見していくことは、もっと多くなっていくことと思う。ゆっくりと流れていく時間のなかで、心の器からこぼれ落ちなかった大切なものを信じて、作家としてこれからも作品を作り続けたい。

2025.4.15 大越智哉 / Tomoya Okoshi