やはり文章は書きたい時でなければ、書けないと思う。海に行った後だからすぐに書きたくなった。久しぶりに海を見に行って思ったのは、1年前と何も変わらないということ。昨年のこの時期に同じく海辺に行ってみたが、その時も同じような気持ちになった。ただし普段の状態はまるっきり違っていた。それなのにこの場所に来ると同じ気持ちになる何故だろう。不思議な場所。小さい頃から見ていた場所で、ずっと変わっていないということが中心的な理由なのかもしれない。車に乗って弟と一緒に見に行こうと言った。1年前もそんなことをしていたような気がする。昔よりも少し大人になって心に余裕があった状態で海に行ってみると、またゆったりできる。海辺で、なんとなくいろんなものを見回してみたり、ただ歩いてみたり、昔、ここでカニをよく釣ったと思い出してみたり、そんなふうに、ただゆっくりと感じたり、話したりするのが好きだ。なぜだかこの場所に来ると、今の自分がどういう状態なのかがよくわかる。海に来たならではの状態になるのに、かえってそれがいつもの状態はどんなものだったかと思い返す契機となるようだ。

海に来ると言う事は”非日常”であるのと同時に、昔の自分にとっては”日常”だったということ。それは昔の日常に戻る行為であり、昔の時間の流れの延長線上に自分がいると言うことが思い返されるのかもしれない。それは本当に興味深いことで、普段自分が生きている時間とは何なのかを考えさせられる。日常と全く違う時間の流れに身を置くと、自分の時間全てが自由にコントロールできてしまっているものなんだと目の当たりにする。しかし海にいる時間はコントロールできない。ずっと変わらずにそこにあり続けているものだから。そんな海に来て、今日書いた詩を載せる。
昔住んでたこの海辺に、また会いに来た。
潮の香りが記憶を連れてくる。
波の音も、空の広さも、
何も変わらない。
昔の景色がそのまま、
心が馴染んでいく。
あの頃の自分に出会えた気がする。
大人になっても、子供の頃もずっと変わらない故郷のような場所が海であり、どんな自然現象に見舞われてもそれを含めてそこに住んでいた・過ごしたと言う記憶は変わらない。海に来ると、様々な記憶や、今の自分がどんな状態だったかがすごくわかるし、客観的で自然体な自分になれる。人間は、海から生まれた。生命は海から生まれた。だからかもしれない。海のピチャピチャとした音を聞くと、その音が数億回繰り返されて生命ができたんだと思った。そういう意味で、海の音は、偉大なるささやきなのかもしれない。これからもピチャピチャというその音が、何億年もの記憶を連れて、新しい生命体を生み出すのかもしれない。音の記憶の中にいるのか、記憶の中に音があるのか、そのどちらもだと思う。また数年後にここに来たり、数十年後にその音を聞いたときに何も変わらない“何か”が自分の中にあると気づいたら、どういう思いが起こされるんだろう。

2025.7.9 大越智哉 / Tomoya Okoshi