自分のなかの原風景

でもなんでだろう、’かたち’のあるものじゃなくても

自分の魅力っていうのは消えないし、

立体作品や平面作品を超えたところにある、自分のなかのスタイルが

あるからこそ、見た時に同じ人なんだなって

思って作品を見続けてくれている方もいる。

こっち(福島)に戻ってきたから、じゃあ明日から違う作品を

作るっていうことにはならないんだよね。

だって、東京だって福島だって場所は違うけれど

もっと言うと、同じ人間が

1日で変わるわけはないし、そう考えると

同じ人間が作ってるんだってやっぱりわかるんだよね。

でもそうじゃなくて作品の質が

維持し続けられるかというか、

これ以上に生き続けられるかっていうことの方が

なんか大事なことのようで。

自然豊かなところに行って良い環境で。

でも、東京で刺激を受けてきて違うものを

色々見続けてなんかどっちもだったなって今に思う。

だからと言って、自然と都会のどちらもを経験をした人々が

少ないからということではないけれど

それで自分が有利だったかどうかと思うと、

自然だけだったら今の新しい感性って身に付かなかった。

でも東京だけだったら、逆に自然でのびのびと豊かなというか

人間ならではの本来の力のようなところが全然引き出せなかったと思う。

自分はその自然豊かなところで育ったからこそ、

東京に行ったら自然にはない新しいものだったり

もっといろんな人がいるって知ったことだったり。

そういう、いろんな人との関わりが学べたからこそ

自分がどういう人間かわかってきたし、

そのことによってどういう風に自分が

適応していかなきゃいけないかってことも身に付けた。

その上でもう一回、自然の中に戻ってくることは

そういうところにいても、やっぱり地元とか生まれた所には

あらがえないってなって。

だって自分はここで育って、今になって

東京にいてもそれは伝わっていたと思うし

周りの人は自分の中に自然とか

’そういうもの’を見ていたんだと思うんだよね。

当時の自分はそういうことを考えないで東京に行ったけれど

でも実は自分のなかにあった、福島の海や山で

育ってきた感性を周りの方こそ見ていたんだと思う。

自分のなかにあったものは当たり前にあったからこそ

交流を通して、今になって自分の感性に気づけてきた。

もしかしたら気づかなくても、自分がぶれなければ

それは意識しなくてもいいことなのかもしれないけれど。

「東北の郷土的な色合いに見える」と言われたり

植物のモチーフが自分でも思いもせず作品に表れてくる時に、

自分の原風景として、ここでの自然が

思っていたよりも大きかったんだなと感じる。